黒澤明監督年譜について
黒澤明監督の年譜は、黒澤明研究会編集の「夢のあしあと」(第1刷)に掲載した『年譜』を基に作成しています。 「夢のあしあと」(第1刷)出版後に、確認された事実や誤字・脱字については順次改訂と修正を実施しております。
【1910年 明治43年 出生】
◎3月23日(水曜日、雨)
東京府荏原郡大井町1150、現・品川区東大井3-26-4付近(2013/06/23改訂)(通称立会川)に生まれる。
父・勇45才は、慶応元年生まれ、秋田久保田(佐竹氏)藩下、現・秋田県大仙市(前・仙北郡豊川村)で村役の家の人。
安部一族黒澤尻の正任を祖とし累代神職であった。
日本体育会体操学校(明治24年創設・日本体育大学の前身)および併設された荏原中学の要職にあった。
黒澤家は、校内の教職者住宅である。
母・シマ40才は、明治3年生まれ大阪商家の人。
姉兄は、茂代・昌康・忠康(病死)・春代9才・種代7才・百代5才・丙午4才。
明は、四男四女の末っ子だった。
現在、日本体育会跡地には品川区立浜川中学校がある。
【1911年 明治44年 1才】
【1912年 明治45年 2才】(大正 1年)
【1913年 大正 2年 3才】
【1914年 大正 3年 4才】
◎乳児期の記憶は断片だが、鮮明に自伝「蝦蟇の油」で語られている。
父の勇は仙台鎮台の陸軍歩兵曹長、陸軍戸山学校の第1期体育学生(明治18年)から、
ここの教官を前歴とした軍人で厳格な人だった。
しかし、日本体育会の創設時から役員だった父は、旧来の武術とともに欧米のスポーツを
普及、日本での最初のプール(明治40年 東京勧業博覧会)創りにも関った先進的な人でも
あったから、映画(活動写真)にも理解があり家族を連れてよく見にいったという。
【1915年 大正 4年 5才】
◎4月森村幼稚園に入園する。
【1916年 大正 5年 6才】
◎4月森村小学校に入学する。
当時は南高輪尋常小学校といい、品川八ツ山にあった。現・森村学園は横浜市緑区に移設。
幼年期の明は虚弱で知能が遅れていたと自身述べている。
【1917年 大正 6年 7才】
◎小学2年
◎父・勇、日本体育会体操学校を退職。
◎小石川の大曲に転居する。小石川区西江戸川町9 (現在・文京区水道1-4)
◎黒田尋常小学校に転校する。現・文京区小日向2-16。
廃校になった跡地には、区立第五中学校→音羽中学校→廃校
現在は、筑波大学の
「付属学校教育局」「理療科教員養成施設」「特別支援教育センター」となっている。
【1918年 大正 7年 8才】
◎小学3年
◎立川精治先生が担任となり絵に興味をもつ。
また同級生の植草圭之助、秀才だった兄・丙午の影響で学年が進むにつれ成績が上がっていく。
【1919年 大正 8年 9才】
◎小学4年
◎兄・丙午 黒田尋常小学校卒業。
一中の入試に失敗、成城中学へ入学したが学業より文学、映画に傾斜しはじめる。
◎姉・百代病死(享年16才。「蝦蟇の油」による)
【1920年 大正 9年 10才】
◎小学5年
◎ [この頃から剣道や書道を習う。また父たちと近くの神楽坂に遊び、映画や寄席をよく見る]
【1921年 大正10年 11才】
◎小学6年
◎兄・丙午(15才)黒澤遥村の名で映画プログラムなどへ投稿。
遥村の他、はるか、粋眼など名乗る。
【1922年 大正11年 12才】
◎黒田尋常小学校を卒業。
◎4月京華中学に入学する。現・文京区本郷2-1順天堂の一画。
現在、京華学園は文京区白山に移設されている。
【1923年 大正12年 13才】
◎中学2年
◎9月1日関東大震災に遭遇する。
明は丙午に連れられ下町を巡り死屍累々の地獄を見る。
◎目黒に転居する。(転居年末確定)
【1924年 大正13年 14才】
◎中学3年
◎渋谷・長谷戸に転居する。(転居年未確定)渋谷町長谷戸29。
現・渋谷区恵比寿西1-27。なお、この前後、付近で再転居があつた。
◎京華校友会誌に載った作文「蓮華の舞踏」は、国語の小原要逸先生に創立以来の名文と誉められる。
◎兄・丙年18才、新宿「武蔵野館」で映画説明者見習いのあと、赤坂「葵館」へ。
【1925年 大正14年 15才】
◎中学4年
◎丙午19才、神楽坂「牛込館」へ須田貞明の名で出る。
【1926年 大正15年 16才】(昭和 1年)
◎中学5年
◎須田貞明(丙午20才)神田「シネマ・パレス」にも出演する。
【1927年 昭和 2年 17才】
◎3月・京華中学卒業。
◎画家を志す。東京美術学校を受験するが不合格。同舟舎、川端絵画研究所へ通う。
◎須田貞明(丙午21才)神田「シネマ・パレス」の専属となる。
【1928年 昭和 3年 18才】
◎9月、第15回「二科展」入選。油彩「静物」
◎秋頃より、『造型美術研究所』(丸ノ内)へ通い始める。
【1929年 昭和 4年 19才】
◎2月、『造型美術研究所』、丸ノ内より長崎町(豊島区)へ移転。
◎4月、ナップ(全日本無産者芸術連盟)傘下のヤップ(日本プロレタリア美術家同盟、
母体の一つは『造形美術研究所』)のメンバーとなる。
◎12月、第2回プロレタリア美術大展覧会へ5点出品、1点撤回。
◎須田貞明(丙午23才)浅草と新宿の「松竹座」に移る。
【1930年 昭和5年 20才】
◎徴兵検査(兵役免除となる)
◎6月、『造型美術研究所』は『プロレタリア美術研究所』へ改称。
◎この頃より非合法紙である第二無産者新聞の地下活動員となり、家を出て下宿を転々とする(推定)。
◎須田貞明(丙午24才)浅草「大勝館」で主任説明者を務める。
(但し初日は5年大晦日)
【1931年 昭和6年 21才】
◎7月、『日本プロレタリア美術集』に『建築場に於ける集会』、『失業保険を作れ』が掲載されるが、発売後発禁処分に。
【1932年 昭和7年 22才】
◎地下活動より脱落、兄丙午(須田貞明)の長屋、神楽坂近く横寺町に身を寄せる。(1931年説もある)
◎4月8日から20日、S・P(松竹・パラマウント)チェーン浅草「大勝館」と「電気館」でトーキー争議。
須田貞明は争議委員長。
【1933年 昭和8年 23才】
◎7月10日兄・丙午自殺(27才。伊豆の旅館で)。
また、音信不通だった長兄・昌康病死の報がこの頃ある。
【1934年 昭和9年 24才】
◎[この頃、画家への才能に疑問を懐き黒澤家に残った男子としてほかの仕事を考え始める]
【1935年 昭和10年 25才】
【1936年 昭和11年 26才】
◎P.C.L(翌年の東宝)に、助監督として入社。
映画の師・山本嘉次郎監督にめぐり会う。
◎助監督参加作品
『處女花園』矢倉茂雄監督。
『エノケンの千万長者』山本嘉次郎監督。
『東京ラプソディー』伏水修監督。
など公開。
【1937年 昭和12年 27才】
◎8月12日:東宝株式会社設立。
◎助監督参加作品
『戦国群盗伝』滝沢英輔監督。
『夫の貞操』『エノケンのちゃっきり金太』『美しき鷹』山本嘉次郎監督。
『雪崩』成瀬巳喜男監督。
など公開。
【1938年 昭和13年 28才】
◎助監督参加作品
『地熱』滝沢英輔監督。
『藤十郎の恋』『綴方教室』『エノケンのびっくり人生』山本嘉次郎監督。
など公開。
【1939年 昭和14年 29才】
◎助監督参加作品
『エノケンのがっちり時代』『忠臣蔵・後編』『のんき横丁』山本嘉次郎監督。
◎『馬』山本嘉次郎監督、製作開始、B班監督を務める。
【1940年 昭和15年 30才】
◎助監督参加作品
『ロッパの新婚旅行』『エノケンのざんぎり金太』『孫悟空/前編・後編』山本嘉次郎監、公開。。
この間、『馬』の製作も継続された。
【1941年 昭和16年 31才】
◎『馬』山本嘉次郎監督、公開。3月11日
◎シナリオ「達磨寺のドイツ人」〈映画評論12月号〉掲載。
伊丹万作監督に賞賛される。
【1942年 昭和17年 32才】
◎シナリオ「静かなり」が情報局国民映画脚本公募に入選、
〈日本映画2月号〉掲載。
◎2月14日:シナリオ『青春の気流』が伏水修監督により公開。
◎シナリオ「雪」が国策映画脚本募集に入選、〈新映画4月号〉に掲載。
◎10月15日:シナリオ『翼の凱歌』(外山凡平と共作)が山本薩夫監督により公開。
ほかの執筆シナリオは
「森の千一夜」「美しき暦」「サンパギタの花」「第三波止場」「敵中横断三百里」など。
◎黒澤明監督作品第1作シナリオ「姿三四郎」執筆。
【1943年 昭和18年 33才】
◎3月25日:第1作『姿三四郎』(原作・富田常雄「姿三四郎」)公開。
◎シナリオ「敵中横断三百里」(映画評論6月号)掲載。
◎シナリオ「門は胸を拡げている」執筆開始、それを改題「日本の青春」に、
更に「渡辺ツル達」に変更、最終的には「一番美しく」となった。
【1944年 昭和20年 34才】
◎3月30日:シナリオ『土俵祭』が丸根賛太郎監督(大映)により公開。
◎4月13日:第2作『一番美しく』公開。
◎シナリオ「じゃじゃ馬物語」執筆。
【1945年 昭和20年 35才】
◎1月11日:シナリオ『天晴れ一心太助』が佐伯清監督により公開。
◎4月26日:第3作『続姿三四郎』公開。
◎5月21日:加藤喜代(女優矢口陽子)と結婚。
◎この頃祖師谷大蔵(現・世田谷区砧の堀川弘通監督実家に転居)
◎次回作「どっこい!この槍」は馬の調達が困難のため、「虎の尾を踏む男達」に 変更、製作は敗戦をまたぎ完成する。製作中、占領軍将校たちが見学に訪れた。 そのなかに敬愛するジョン・フォード監督が、海軍将官としていたことを後で知る。
◎第4作『虎の尾を踏む男達』は公開禁止となる。
日本側検閲官がこの映画は「勧進帳」を改悪愚弄しているという理由から、
占領軍GHQへのリストから除外した事による。
◎戯曲「喋る」を執筆、新生新派が有楽座で公演。12月1日〜25日
◎12月20日:長男・久雄誕生。
【1946年 昭和21年 36才】
◎戯曲「喋る」(平凡1月号)掲載。
◎『明日を創る人々』公開。5月2日 山本嘉次郎、関川秀雄との共同監督だったが、自作リストから除外。
◎10月29日:第5作『わが青春に悔なし』(シナリオ久板栄二郎)公開。
製作は第1次東宝争議解決後からなされたが、第2次争議により日活系で封切られた。
【1947年 昭和22年 37才】
◎3月11日:シナリオ『四つの恋の物語・第一話 初恋』が豊田四郎監督により公開。
◎シナリオ「山小屋の三悪人」(映画展望No.4)掲載。
◎6月25日:第6作『素晴らしき日曜日』(シナリオ植草圭之助)公開。
◎8月 5日:シナリオ「山小屋の三悪人」を『銀嶺の果て』と改題、谷口千吉監督により公開。
この映画で三船敏郎デビュー。
◎シナリオ「酔いどれ天使」を植草圭之助と執筆。
◎この頃世田谷区千歳船橋に転居。
【1948年 昭和23年 38才】
◎2月8日:父・勇(83)出身地秋田で死去。
◎3月:映画芸術家協会
(山本嘉次郎、本本荘二郎、谷口千吉、後に、成瀬巳喜男、松山崇、田中友幸)に参加。
◎4月26日:第7作『酔いどれ天使』(植草圭之助と共同シナリオ)公開。
この映画で、三船敏郎と早坂文雄(作曲)を初起用。
◎第3次東宝争議。4月〜8月
8月3日:シナリオ『肖像』が木下恵介監督(松竹)により公開。
◎シナリオ「罪なき罰」(菊田一夫「堕胎医」)を谷口千吉と執筆、
後に「静かなる決闘」と改題。
【1949年 昭和24年 39才】
◎3月8日:シナリオ『地獄の貴婦人』(西亀元貞と共同)が小田基義監督により公開。
◎3月13日第8作『静かなる決闘』大映で公開。
◎7月11日:シナリオ『ジャコ萬と鉄』(谷口千吉と共同。梶野悳三「鰊漁場」)が、谷口千吉監督により公開。
◎10月17日:第9作『野良犬』(菊島隆三と共同シナリオ)映画芸術協会・新東宝提携で公開。
【1950年 昭和25年 40才】
◎1月8日:シナリオ『暁の脱走』(谷口千吉と共同)が谷口千吉監督により公開。
◎4月28日:第10作『醜(スキャンダル)聞』(菊島隆三と共同シナリオ)松竹で公開。
◎次回作のために橋本忍のシナリオ「雌雄」
(芥川龍之介「藪の中」)に加筆し「羅生門」とする。
◎8月12日:シナリオ『ジルバの鉄』
(棚田吾郎と共同。梶野悳三「ジルバの鉄」)が小杉勇監督により公開。
◎8月26日:シナリオ『殺陣師段平』
(長谷川幸延「殺陣師段平」)がマキノ雅弘監督により東映で公開。
◎8月26日:第11作『羅生門』(橋本忍と共同シナリオ)。大映で公開。
◎次回作シナリオ「白痴」を久板栄二郎と執筆。
【1951年 昭和26年 41才】
◎1月4日:シナリオ『愛と憎しみの彼方へ』 (谷口千吉と共同。寒川光太郎「脱獄囚」。)
映画芸術協会・東宝が谷口千吉監督により公開。
◎第12作『白痴』(ドストエフスキー「白痴」久板栄二郎と共同シナリオ)松竹で公開。
5月19日〜25日札幌、26日〜6月1日函館で先行封切。
東京劇場では5月23〜25日の3日間、3時間2分版をロードショー。
一般公開は6月1日から短縮版(2時間46分)で上映された。
◎6月8日:シナリオ『獣の宿』(藤原審爾「湖の薔薇」)が大曽根辰夫監督により公開。
◎9月10日:『羅生門』がベネチア国際映画無でグランプリを獲得したとの報ある。
【1952年 昭和27年 42才】
◎1月:北多摩郡狛江村和泉2088番地(現・狛江市)に転居。
◎1月3日:シナリオ『決闘鍵屋の辻』森一生監督により公開。
◎4月24日:公開禁止となっていた第4作『虎の尾を踏む男達』(昭和20年製作)が公開。
◎5月22日:シナリオ『戦国無頼』
(井上靖「戦国無頼」。稲垣浩と共同)が稲垣浩監督により公開。
◎10月9日:第13作『生きる』(橋本忍、小国英雄と3名共同シナリオ)が本拠地、東宝で公開。
◎11月4日:母・シマ(82)死去。
【1953年 昭和28年 43才】
◎1月15日:シナリオ『吹けよ春風』(谷日千吉と共同)が谷口千吉監督(東宝)により公開。
◎前年より次回作に時代劇を小国英雄、橋本忍とともに構想、武士の一日の物語や剣豪物を模索する。
小国英雄によると、
本木が農民が武者修行の侍に夜盗から村を護ってもらったという話を
村上元三から聞いてシナリオ『七人の侍』は誕生した。
{『七人の侍』余話 小国秀雄 雑誌『日本映画』一九五三年八月号}
【1954年 昭和29年 44才】
◎4月26日:第14作『七人の侍』(橋本忍、小国英雄と3名共同シナリオ。東宝)が公開。
◎4月29日:長女・和子誕生。
【1955年 昭和30年 45才】
◎1月14日:シナリオ『消えた中隊』(井手雅人「地の塩」。菊島隆三と共同)が三村明監督(日活)により公開。
◎10月5日:シナリオ『あすなろ物語』(井上靖「あすなろ物語」)が堀川弘通監督・黒澤明編集(東宝)により公開。
◎10月15日:早坂文雄(41)死去。
◎11月22日:第15作『生きものの記録』
(橋本忍、小国英雄と3名共同シナリオ。東宝)が公開。
【1956年 昭和31年 46才】
◎東宝時代劇再生と若手監督育成を期し、黒澤シナリオチームから
『蜘妹巣城』『隠し砦の三悪人』『どん底』『用心棒』などの原案が出る。
【1957年 昭和32年 47才】
◎1月15日:第16作『蜘蛛巣城』(シェイクスピア「マクベス」。
小国英雄、橋本忍、菊島隆三と4名共同シナリオ。東宝)が公開。
◎9月17日:第17作『どん底』(ゴーリキー「どん底」。小国英雄と共同シナリオ。東宝)が公開。
◎10月11日-25日:ロンドン・ナショナル・フィルム・シアター開場式、
第1回ロンドン映画祭に出席のため初渡欧。
ロンドン・ナショナル・フィルム・シアター開場式、第1回ロンドン映画祭の
10月16日:オープニングで『蜘蛛巣城』上映。
◎12月28日:シナリオ『敵中横断三百里』
(山中峰太郎「敵中横断三百里」。小国英雄共同)が森一生監督により公開。(大映)
【1958年 昭和33年 48才】
◎シナリオ「日々平安」(山本周五郎「日日平安」)を「映画評論9月号」に掲載。
◎12月28日:第18作『隠し砦の三悪人』(菊島隆三、小国英雄、橋本忍と4名共同シナリオ。)
黒澤映画初のシネマスコープ画面。(東宝)が公開。
【1959年 昭和34年 49才】
◎3月30日:黒澤プロダクション設立。
◎8月9日:シナリオ『戦国群盗伝』
(三好十郎「群盗」。山中貞雄原案。黒澤明潤色。)が杉江敏男監督(東宝)により公開。
【1960年 昭和35年 50才】
◎8月東京オリンピックの記録映画監督を依頼されローマオリンピックを視察。
帰途、ヴェネチア国際映画祭に出席。
◎第19作『悪い奴ほどよく眠る』
(小国英雄、久板栄二郎、菊島隆三、橋本忍と5名共同シナリオ。東宝・黒澤プロ第1回作品)
が、9月15日〜19日特別披露公開(ヒビヤ有楽座)。
10月1日一般公開。
【1961年 昭和36年 51才】
◎第20作『用心棒』(菊島隆三と共同シナリオ。東宝・黒澤プロ)が4月25日公開。
◎5月3日:『七人の侍』をリメークした西部劇『荒野の七人』(J・スタージェス監督)日本公開。
【1962年 昭和37年 52才】
◎1月1日:第21作『椿三十郎』
(小国英雄・菊島隆三と3名共同シナリオ。東宝・黒澤プロ)が公開。
◎9月:世田谷区松原二丁目755番地に転居。
◎9月30日:シナリオ『殺陣師段平』が瑞穂春海監督(大映)により再映画化公開。
【1963年 昭和38年 53才】
◎1月:三船プロダクション設立。
◎3月1日:第22作『天国と地獄』(エド・マクベイン「キングの身代金」。
小国英雄、菊島隆三、久板栄二郎と4名共同シナリオ。東宝・黒澤プロ)が公開。
◎3月21日:東京オリンピックの記録映画監督を予定制作費が認められず辞退。
(後任、市川崑監督)
◎4月25日:キネマ旬報増刊「黒沢明(その作品と顔)」発行。
【1964年 昭和39年 54才】
◎2月8日:シナリオ『ジャコ萬と鉄』が深作欣二監督(東映)により再映画化公開。
◎9月15日:キネマ旬報別冊「黒沢明・三船敏郎 二人の日本人」(赤ひげ持集)発行。
【1965年 昭和40年 55才】
◎4月3日:第23作『赤ひげ』
(山本周五郎「赤ひげ診療譚。井手雅人、小国英雄、菊島隆三と4名共同シナリオ。東宝・黒澤プロ)が公開。
◎5月29日:シナリオ『姿三四郎』
(黒澤プロ・東宝)が内川清一郎監督・黒澤明編集により再映画化公開。
◎12月25日:『荒野の用心棒』(セルジオ・レオーネ監督)公開。『用心棒』の盗作と判明。
【1966年 昭和41年 56才】
◎11月15日:米国アブコ・エンバシー・ピクチャーズとの合作『暴走機関車』のシナリオが完成するが、製作条件が相違し無期延期となる。
【1967年 昭和42年 57才】
◎4月28日:20世紀FOX・黒澤プロは『トラ・トラ・トラ!』
(シナリオ小国英雄、菊島隆三、黒澤明、ラリー・フォレスター共同)の製作を発表。
【1968年 昭和43年 58才】
◎『トラ・トラ・トラ!』で黒澤監督は実在感を求め主要配役に社会人実業家を起用、東映京都撮影所で始動。
しかし、20世紀FOXの合理性や不慣れな撮影所での製作方法の食い違いから撮影は難航を極める。そして、「健康上の理由から監督を降りる」と発表された。
ただし、これは黒澤監督の意向ではなく不可解な事態となる。
黒澤監督は続行を主張したが、20世紀FOXは既に舛田利雄、深作欣二両監督と契約、新たな出演者も決定したと発表する。
黒澤プロは降板者などへの補償、債務支払いを要求した。
【1969年 昭和44年 59才】
◎1月21日:20世紀FOXとの合作映画『トラ・トラ・トラ!』、撮影継続を断念。
◎7月25日:「四騎の会」結成。(木下恵介、市川崑、小林正樹、黒澤明)
『どら平太』(山本周五郎「町奉行日記」)、「死の家の記録」(ドストエフスキー)などが
企画された。
【1970年 昭和45年 60才】
◎3月1日:キネマ旬報社「世界の映画作家?・黒沢明」発行。
◎10月31日:第24作『どですかでん』
(山本周五郎「季節のない街」。 小国英雄、橋本忍と3名共同シナリオ。
スタンダード・サイズ。 黒澤映画初のカラー作品。四騎の会・東宝)が公開。
【1971年 昭和46年 61才】
◎3月6日:名古屋・名鉄ホールで「黒澤明フェスティバル」が開催され黒澤監督が初めて講演、
14作品が上映された。
◎7月:モスクワ映画祭に出席、『どですかでん』上映。
この時『デルス・ウザーラ』などが話題になる。
◎8月31日:テレビ・ドキュメンタリー『馬の詩』を監修、日本TV系で放映。
日本TVで「夏目漱石シリーズ」、フジTVで「山本周五郎シリーズ」を監修するという話もあった。
◎12月22日:自宅浴室で自殺を図るが、一命をとりとめる。
【1972年 昭和47年 62才】
◎2月23日:モーリス・ジャール「クロサワに捧ぐ」を作曲し来日。コンサートを開き、23日黒澤監督と対面。
◎4月:ソ連映画合作公団総裁より『デルス・ウザーラ』製作実現の用意あると伝えられる。
◎5月5日:「黒澤明研究会」発会。
◎10月:渋谷区恵比寿西一丁目35番地11東急代官山タワー202号室に転居。
【1973年 昭和48年 63才】
◎1月:モスクワに出発、『デルス・ウザーラ』始動。
◎2月:松江プロデューサーと渡欧。
『どですかでん』上映のロッテルダムとアントワープの各映画祭へ出席しモスクワヘ。
◎7月6日:在日ソ連大使館で『デルス・ウザーラ』製作記者会見。
◎7月9日:モスクワ映画祭出席。『デルス・ウザーラ』製作打合せ。モスフィルム・スタッフとロケハン開始。
◎8月31日:ジョン・フォード(79)死去。監督。
◎9月29日:原案『野良犬』(松竹)が森崎東監督により再映画化公開。
◎10月26日:『デルス・ウザーラ』シナリオ決定稿完成。
◎12月11日:日本側スタッフとモスクワヘ。
デルス役に三船敏郎を予定していたが2年間の拘束は不可能となり変更。
【1974年 昭和49年 64才】
◎1月2日:『デルス・ウザーラ』モスフィルムで仕事始め。
◎9月21日:山本嘉次郎(72)死去。監督。
【1975年 昭和50年 65才】
◎4月28日:『デルス・ウザーラ』撮影終了。
6月18日:モスクワを発ち帰国の途へ。
◎6月19日:日本テレビ系「黒澤明のすべて」放映。
◎7月31日:加東大介(64)死去。俳優。
◎8月2日:第25作『デルス・ウザーラ』
(ウラジミール・アルセーニエフ「シベリアの密林を行く」「デルス・ウザーラ」。
ユーリー・ナギービン共同シナリオ。製作=モスフィルム/アトリエ41協力ソ連映画。
配給=日本ヘラルド。ソ連国産カラー。黒澤映画初の70ミリ)公開。
◎11月29日:「悪魔のように細心に!天使のように大胆に!」
(黒澤明監修)東宝(事業部)より発行
【1976年 昭和51年 66才】
◎シナリオ「乱」(および「影武者」)第1稿脱稿。
◎3月29日:『デルス・ウザーラ』が第48回アカデミー賞最優秀外国語映画賞(『羅生門』以来2度目)。
◎6月9日:久板栄二郎(77)死去。シナリオライター。
【1977年 昭和52年 67才】
◎5月10日:本木荘二郎(62)死去。プロデューサー。
◎調布市入間町3丁目に転居。
◎シナリオ「死の家の記録」「赤き死の仮面」執筆。
【1978年 昭和53年 68才】
◎1月20日:『影武者』出演者を新聞広告で公募。
◎3月14日-9月12日:「週刊読売」に「蝦蟇の油―自伝のようなもの」を25回にわたり連載。
◎11月1日:シナリオ・絵コンテ集「影武者」が講談社より発行。
◎12月20日:『影武者』製作発表。
東宝と黒澤プロ製作によるが、F・コッポラ、G・ルーカス、S・スピルバーグの働きかけで、20世紀FOXが世界配給権を肩代わりし一部を出資。
◎この頃世田谷区成城2丁目に転居。
【1979年 昭和54年 69才】
◎4月20日:三井弘次(69)死去。俳優。
◎3月28日:ソ連映画60周年を記念して黒澤明、ルネ・クレールら12人(外国人対象)に特別名誉賞を授与と発表。
◎5月2日:藤本真澄(68)死去。プロデューサー。
◎5月14日:森岩雄(80)死去。東宝重役。
◎7月25日:『影武者』主役・勝新太郎が仲代達矢に変更。
◎11月2日:TV・NHK特集「黒澤明の世界」(『影武者ドキュメント)放映。
◎11月:F・コッポラ、G・ルーカスが北海道勇払原野での『影武者』撮影現場を表敬訪間。
【1980年 昭和55年 70才】
◎この年、世田谷区成城2丁目に転居。
◎4月:西武池袋店で「影武者展」開催。
◎4月26日:第26作『影武者』(井手雅人と共同シナリオ。東宝・黒澤プロ)公開。
◎5月23日:カンヌ国際映画祭で『影武者』グランプリ。
【1981年 昭和56年 71才】
◎1月11日、18日、25日、2月1日:
NHK教育TV「若い広場」― マイ・ブックに出演、4回にわたり「戦争と平和」「三四郎」「白痴」「平家物語」について語った。
【1982年 昭和57年 72才】
◎2月11日:志村喬(76)死去。俳優。
◎9月9日:ベネチア国際映画祭50周年記念回顧上映で『羅生門』が歴代のグランプリ
「獅子の中の獅子」に選ばれる。
◎11月19日:『乱』製作決定発表記者会見。帝国ホテル。
【1983年 昭和58年 73才】
◎11月1日:黒澤フィルムスタジオ完成。
【1984年 昭和59年 74才】
◎フランス、レジオン・ドヌール・オフィシェ勲章授与
◎12月2日:森谷司郎(53)死去。監督。
【1985年 昭和60年 75才】
◎1月15日:矢野口文雄(67)死去。録音技師。
◎2月1日:黒澤監督夫人・喜代(63)死去。
◎2月23日:『乱』全撮影完了。
◎4月12日:宮口精二(71)死去。俳優。
◎5月31日:『乱』日劇東宝でプレミア試写会。
◎5月31日:『黒澤明展』渋谷東急で開催。
◎6月1日:第27作『乱』(シェイクスピア「リア王」。
小国英雄、井手雅人と3名共同シナリオ。
製作=ヘラルド・エース/グリニッチ・フィルム・プロダクションSA。
配給=東宝・日本ヘラルド)公開。
◎10月18日:田崎潤(72)死去。俳優。
◎10月24日:永田雅―(79)死去。元大映社長。
◎12月21日:藤原釜足(80)死去。俳優。
【1986年 昭和61年 76才】
◎3月14日:第58回アカデミー賞で『乱』の衣装を担当したワダエミが「衣装デザイン賞」を受賞した。
◎7月14日:次回作シナリオ「こんな夢を見た」(後の『夢』)第1稿(全11話)を脱稿。
◎8月17日:TV朝日系「黒澤明・映画がすべて」放映。
◎9月21日:「こんな夢を見た」は予算上、第1話[飛ぶ]第8話[阿修羅]第11話[素晴らしい夢]を削除して改稿する。
【1987年 昭和62年 77才】
◎11月18日:「全集・黒澤明」第1巻が岩波書店より発行される。
【1988年 昭和63年 78才】
◎2月28日:中井朝一(77)死去。撮影技師。
◎5月8日-14日:黒澤監督、黒澤久雄、井上芳男両プロデューサー渡米。
ワーナー・プラザーズ本社と資金について交渉。S・スピルバーク製作総指揮による、製作費14億円の出資が決定した。
◎4月23日:小沢栄太郎(77)死去。俳優。
◎6月27日:来日中のG・ルーカス監督と会談。
◎8月22日:ジュリアーナ・ストラミジョリ死去。イタリアフィルム重役。
(『羅生門』をグランプリに導いた女性)
【1989年 昭和64年 79才】(平成1年)
◎2月1日:「文藝春秋」2月号〈著名人が選んだ日本映画ベスト100〉に、
?七人の侍 ?生きる ?羅生門 ?用心棒 ?酔いどれ天使、
などが選ばれ監督ベスト20の1位に黒澤明が選出される。
◎3月18日:菊島隆三(75)死去。シナリオライター。
◎7月17日:井手雅人(68)死去。シナリオライター。
【1990年 平成 2年 80才】
◎次回作シナリオ「八月の狂詩曲(ラプソディー)」執筆のため京都へ。
2月6日-3月:
長崎、津久井、相模湖、伊勢原、昇仙峡、秩父、仙台、丹沢、御殿場などをロケハン。(2013.7.8 修正)
◎3月23日:藤田進(78)死去。俳優。
◎3月26日:第62回アカデミー賞で「特別名誉賞」受賞。
◎5月10日:第43回カンヌ国際映画祭で『夢』がオープニング上映。
◎5月25日:第28作『夢』
(シナリオ=黒澤明。製作=東宝・黒澤プロ。提供=S・スピルバーグ。
配給=ワーナー・ブラザース)が公開。
◎6月5日:埼玉県秩父栃谷に、『八月の狂詩曲(ラプソディー)』の
主要オープンセットおばあちゃんの家の棟上げ。
◎8月8日:『八月の狂詩曲(ラプソデイー)』製作発表記者会見。
(箱根プリンスホテルに世界18ヶ国の報道陣が出席)
◎10月5日:ガルシア・マルケス(ノーベル賞作家)と会談。
【1991年 平成 3年 81才】
◎8月16日:次回作シナリオ「まあだだよ」脱稿。
◎4月11日:『八月の狂詩曲(ラプソディー)』試写と「黒澤明と若者たちとの対話」開催。
ソニーPCL創業40周年イベント。有楽町朝日ホール。
◎5月25日:第29作『八月の狂詩曲(ラプソデイー)』
原作=村田喜代子「鍋の中」。シナリオ=黒澤明。
製作=松竹・黒澤プロ。配給=松竹が公開。
◎6月1日-8日:NHK衛星2TV「巨匠・黒澤明のすべて」を含計35時間にわたり放映。
◎11月9日:第15回「山路ふみ子賞」受賞。
【1992年 平成 4年 82才】
◎1月30日:『まぁだだよ』製作発表。赤坂プリンスホテル。
◎2月8・9日:秋田県中仙町で「黒澤明映画祭」開催。
◎3月26日:東宝スタジオで百?邸と町並みのオープンセットと宴会のリハーサルが内外記者に公開、黒澤監督との会見も行われた。
◎9月15日−20日:東宝第9スタジオに、夕焼け雲の大スクリーンを設営、最後のシーンを撮ってクランク・アップ。
◎10月29日:第4回「世界文化賞(高松宮記念)」受賞。
◎11月3日:ニッポン放送(ラジオ)「世界文化賞メモリアル黒澤明心の世界」を放送。
【1993年 平成 5年 83才】
◎2月8日:『まあだだよ』(有楽町マリオン日本劇場)完成披露試写会。
監督生活50周年、第30作目にあたって記者会見も行われた。その中で次回作は、
江戸の町民の人情劇を構想していると発表した。
◎2月28日:本多猪四郎(81)死去。監督。
3月6日:「本多猪四郎監督お別れ会」黒澤明監督、大林宣彦監督らが弔辞を述べた。
(世田谷区成勝寺)
◎3月16日:笠智衆(88)死去。俳優。
◎3月23日:フジTV系「スーパータイム」で倍賞美津子、露木茂と対談。
◎4月2日・8日:TBSTV系「ニュース23」で筑紫哲也と対談。
◎4月17日:第30作『まあだだよ』
(内田百?「内田百?全集」。シナリオ=黒澤明。提供=大映・電通・黒澤プロ。
配給=東宝)が公開。
◎5月5日:日本TV系「黒澤明と宮崎駿対談」放映。
◎5月14日:カンヌ国際映画祭に『まあだだよ』が特別招待された。
◎5月21日:NHK衛星TV「「たけしのビッグトーク」で北野武監督と対談。
◎9月24日:「佐藤勝映画音楽コンサート」開催。東京五反田ゆうぽうと会館。
◎10月9日:村瀬幸子(88)死去。女優。
◎12月19日:植草圭之助(83)死去。シナリオライター。
【1994年 平成 6年 84才】
◎2月18日:次回作に山本周五郎の「つゆのひぬま」と「なんの花か薫る」をベースに
江戸時代の岡場所を舞台としたシナリオ「海は見ていた」を構想、宮沢りえが
候補にあがった。
◎9月8日:東野英治郎(86)死去。俳優。
◎11月5日:渋谷オーチャード・ホール「日本映画音楽の巨匠たち」の第2部で
「黒澤明映画音楽の秘密」として佐藤勝指揮により七人の侍、羅生門、用心棒、赤ひげが演奏された。
◎第10回「京都賞」(稲盛財団。平安建都千二百年記念協会共催。)を受賞。
『夢』の上映、記念講演、対話が行われた。国立京都国際会館 11月10日−12日
【1995年 平成 7年 85才】
◎1月12日:入江たか子(83)死去。女優。
◎次回予定の「海は見ていた」は、洪水シーンの規模が大きく断念。
新たなシナリオ「雨あがる」(山本周五郎「雨あがる」)を京都で執筆中倒れる。
3月中旬
◎世田谷区成城4丁目に転居
◎JAS航空の機体にマーキングデザインをする。
【1996年 平成 8年 86才】
◎2月5日:小国英雄(91)死去。シナリオライター。
◎2月20日:武満徹(65)死去。作曲家。
◎野長瀬三摩地(71)死去。監督。5月23日
◎東中野BOX「日本映画監督協会創立60周年記念フェスティバル」開催。
ビデオ「わが映画人生(黒澤明)」(インタビュア:大島渚)が公開。
【1997年 平成 9年 87才】
◎1月16日:村木忍(73)死去。映画美術。
◎4月2日:田中友幸(86)死去。プロデューサー。
◎4月4日:杉村春子(91)死去。女優。
◎4月15日:西村晃(74)死去。俳優。
◎8月2日:TBS系TV世界ふしぎ発見「黒澤明」放映。
◎10月8日−13日:秋田県中仙町「黒澤明展」開催。
◎11月28日:三津田健(95)死去。俳優。
◎12月24日:三船敏郎(77)死去。俳優。
【1998年 平成10年 88才】
◎1月24日:「故三船敏郎本葬儀」が青山斎場で行われた。
黒澤監督は加療中のため欠席、長男久雄が弔辞を代読した。
◎3月11日:堺左千夫(72)死去。俳優。
◎4月20日:稲葉義男(77)死去。俳優。
◎5月4日:丹下キヨ子(78)死去。女優。
【1998年 平成10年 88才】
◎9月6日午後0時45分:黒澤明(88)死去。(脳卒中)
「黒澤明監督・お別れの會」が横浜市緑区の黒澤フィルムスタジオで9月13日午後2時より行われた。
後日、無宗教ながら友人たちからおくられた戒名は
「映明院殿紘国慈愛大居士」
◎11月11日:淀川長治(89)死去。映画評論家。
◎11月:第11回東京国際映画祭で「黒澤明監督作品特別追悼上映」が行われ全30作品が回顧された。
◎12月12日:遺作シナリオによる『雨あがる』の製作発表が帝国ホテルで行われる。 小泉尭史監督は晩年の黒澤映画の助監督を勤め、黒澤監督からの信頼が厚かった。
【1999年 平成11年】
◎5月7日:『雨あがる』掛川ロケよりクランク・イン。
6月30日:『雨あがる』東宝撮影所でセット撮影終了。
◎8月7日:宮川一夫(91)死去。撮影技師。
◎米タイム誌アジア版で黒澤明が「20世紀で最も影響力のあったアジアの20人」に選ばれる。(3月16日号)
◎9月6日:『雨あがる』がベネチア国際映画祭特別追悼上映され、緑の獅子賞を受賞する。
◎9月27日:『雨あがる』凱旋完成披露試写会が、東京国際フォーラム・Cホール(有楽町)で開催された。
◎10月31日:『雨あがる』第12回東京国際映画祭の、特別招待作品として上映される。
◎11月1日:千秋実(82)死去。俳優。
◎12月5日:佐藤勝(71)死去。作曲家。
【2000年 平成12年】
◎1月22日:『雨あがる』(脚本・黒澤明、監督・小泉尭史)公開。
【2002年 平成14年】
◎7月27日『海は見ていた』(脚本・黒澤明、監督・熊井啓)公開。
◆1942年(昭和17年)
「静かなり」
- ・情報局国民映画脚本募集 情報局賞 2位
「雪」
- ・国策映画脚本募集 情報局賞 1位
◆1943年(昭和18年)
「姿三四郎」
- ・山中貞雄賞
- ・国民映画奨励賞
- ・映画評論 ベストテン 第2位
◆1946年(昭和21年)
「わが青春に悔なし」
- ・キネマ旬報ベスト・テン 第2位
- ・新映画 読者賞
◆1947年(昭和22年)
「素晴らしき日曜日」
- ・キネマ旬報ベスト・テン 第6位
- ・毎日映画コンクール 監督賞 脚本賞:植草圭之助
- ・映画世界 監督賞
◆1948年(昭和23年)
「酔いどれ天使」
- ・キネマ旬報ベスト・テン 第1位
- ・毎日映画コンクール 日本映画賞 撮影賞:伊藤武夫 音楽賞:早坂文雄
- ・映画世界 映画世界社賞 作品賞
- ・新映画 新映画賞 第1位
- ・都民映画コンクール 金賞
◆1949年(昭和24年)
「静かなる決闘」
- ・キネマ旬報ベスト・テン 第7位
「野良犬」
- ・キネマ旬報べスト・テン 第3位
- ・毎日映画コンクール
男優演技賞:志村喬 撮影賞:中井朝一 美術賞:松山崇 音楽賞:早坂文雄
- ・都民映画コンクール 銀賞
- ・シナリオ作家協会 シナリオ賞
- ・芸術祭 文部大臣賞
◆1950年(昭和25年)
「醜聞」
- ・キネマ旬報べスト・テン 第6位
「羅生門」
- ・キネマ旬報ベスト・テン 第5位
- ・毎日映画コンクール 女優演技賞:京マチ子
- ・第1回ブルーリボン 4位 脚本賞:黒澤明 橋本忍
- ・世界映画 特別賞
- ・ベネチア国際映画祭 金獅子賞(1951年度)
- ・イタリア記者全国連盟 最優秀外国映画賞(1951年度)
- ・アカデミー賞 最優秀外国語映画賞(1952年度)
- ・ベネチア国際映画祭 50周年記念
レ・パプリカ新聞の“グランブリ作品中のグランプリ”に選出(1982年度)
◆1951年(昭和26年)
「白痴」
- ・アメリカ映画芸術科学アカデミーロサンゼルス国際映画展覧会賞(1977年度)
◆1952年(昭和27年)
「生きる」
- ・キネマ旬報べスト・テン 第1位
- ・毎日映画コンクール 日本映画賞 脚本賞:黒澤明 橋本忍 小国英雄 録音賞:矢野口文雄
- ・映画世界 映画世界社賞 作品賞
- ・九州フク二チ映画祭 最優秀作品賞
- ・芸術祭賞 文部大臣賞映画部門
- ・都民映画コンクール 金賞
- ・第3回ブルーリボン 8位
- ・シナリオ作家協会 シナリオ賞
- ・第6回日本映画技術賞 撮影賞:中井卓月一 録音賞:三縄一郎
- ・ベルリン国際映画祭 銀熊賞(1954年度)
- ・国際映画教育文化委員会 金メダル
- ・セルズニック・コールデン・ローレル賞(米)(1961年度)
- ・サイト・アンド・サウンド・トップテン(ベルギー)次点(1972年度)
◆1954年(昭和29年)
「七人の侍」
- ・キネマ旬報ベスト・テン 第3位
- ・毎日映画コンクール 男優助演賞:宮口精二
- ・第5回フルーリボン 3位 音楽賞:早坂文雄
- ・都民映画コンクール 銀賞
- ・シナリオ作家協会 シナリオ賞
- ・第8回日本映画技術賞 撮影賞:中井朝一 美術賞:松山崇
- ・川崎市民映画コンクール 最優秀作品賞
- ・ベネチア国際映画祭 銀獅子賞
◆1955年(昭和30年)
「生きものの記録」
- ・キネマ旬報ベスト・テン 第4位
- ・北海道新聞 映画作品賞 演出賞 脚本賞
- ・シナリオ作家協会 シナリオ賞
- ・芸術選奨 故・早坂文雄(日本の映画音楽に貢献)
◆1957年(昭和32年)
「蜘妹巣城」
- ・キネマ旬報ベスト・テン 第4位 女優賞:山田五十鈴
- ・毎日映画コンクール 男優主演賞:三船敏郎 美術賞:村木与四郎
- ・第8回ブルーリボン 7位 技術賞(美術):村木与四郎
- ・第11回日本映画技術賞 美術賞:村木与四郎
- ・芸術選奨:山田五十鈴
- ・リスボン映画祭 特別賞
- ・ロサンゼルス国際映画賞(1974年度)
- ・第1回ロンドン映画祭 最も独創的な映画賞
「どん底」
- ・キネマ旬報べスト・テン 第10位
- ・毎日映画コンクール 男優助演賞:三井弘次
- ・第8回ブルーリボン 10位 助演男優賞:三井弘次
- ・川崎市民映画コンクール 最優秀作品賞
◆1958年(昭和33年)
「隠し砦の三悪人」
- ・キネマ旬報べスト・テン 第2位
- ・第9回ブルーリボン 作品賞
- ・シナリオ作家協会 シナリオ貰
- ・ベルリン国際映画祭 銀熊賞 監督賞 国際映画批評家賞(1959年度)
◆1960年(昭和35年)
「悪い奴はとよく眠る」
- ・キネマ旬報ベスト・テン 第3位 脚本賞:橋本忍
- ・毎日映画コンクール 男優助演賞:森雅之 音楽賞:佐藤勝
- ・第11回ブルーリボン10位
- ・シナリオ作家協会 シナリオ賞
- ・東京労映ミリオンバール 最優秀作品賞
◆1961年(昭和36年)
「用心棒」
- ・キネマ旬報ベスト・テン 第2位 男優賞:三船敏郎
- ・第12回ブルーリボン10位
- ・主演男優賞:三船敏郎 音楽賞:佐藤勝 特別賞:三船敏郎(国際的な活躍による)
- ・東京労映ミリオンバール 最優秀作品賞 監督賞
- ・シナリオ作家協会 シナリオ賞
- ・都民映画コンクール 銀賞
- ・川崎市民映画コンクール
- ・「週刊サンケイ」シルバースター 作品賞 監督賞
- ・第1回日本映画記者会員 最優秀男優賞:三船敏郎
- ・大阪市民映画コンクール 作品賞
- ・高知県民映画 作品賞
- ・福岡県優秀映画選彰祭 作品賞 監督賞
- ・函館鑑賞会 作品賞 監督賞
- ・ベネチア国際映画祭 主演男優賞:三船敏郎
- ・チネマ・ヌオーヴォ 金賞:三船敏郎
◆1962年(昭和37年)
「椿三十郎」
- ・キネマ旬報べスト・テン 第5位 男優賞:仲代達矢
- ・シナリオ作家協会 シナリオ賞
- ・毎日新聞 日本映画ベスト・テン 第5位
- ・東京労映ミリオンパール 作品賞ベスト・テン 第1位
- ・川崎市民映画コンクール 最優秀賞
- ・川崎教育委員会賞
- ・神奈川新聞社賞
- ・川崎映画祭賞
- ・ラジオ関東賞
- ・函館名画鑑賞会 クレー卜ペア 作品賞 監督賞 最優秀男優賞:三船敏郎
- ・福岡映画記者会 作品賞 殺陣賞:久世竜 整音賞:下永尚
- ・福岡県優秀映画選彰祭 作品賞 監督賞
- ・NHK映画祭べスト・テン 第4位
- ・地方新聞映画記者会 ホワイトブロンズ ベスト・テン第5位
- ・「映画の友」ベスト・テン 第3位
- ・「映画評論」ベスト・テン 第3位
- ・いわき民放 内外映画ベスト・テン 第1位
- ・産経国民映画賞 シルバースター 主演男優賞:三船敏郎
- ・アジア映画祭 撮影賞:小泉福造 斎藤孝雄 録音賞:小沼渡
◆1963年(昭和38年)
「天国と地獄」
- ・キネマ旬報ベスト・テン 第2位
- ・毎日映画コンクール 日本映画賞
脚本賞:小国英雄 菊島隆三 久根菜二郎 黒澤明 - ・東京労映ミリオンパール 作品賞
- ・川崎市民映画コンクール 最優秀作品賞
- ・「週刊サンケイ」シルバースター 作品賞 監督賞
- ・シナリオ作家協会 シナリオ賞
- ・NHK映画祭 最優秀作品賞 監督賞
- ・第17回日本映画技術賞 録音賞:矢野口文雄 東宝録音スタッフ
- ・第3回日本映画記者会賞 2位
- ・工ドガー・アラン・ポー賞(1964年度)
- ・福岡映画記者会 作品賞 監督賞
- ・九州フク二チ映画祭 作品賞
- ・函館名画鑑賞会 グレートペア 作品賞 監督賞
◆1964年(昭和39年)
- ・ゴールデンローレル賞
◆1965年(昭和40年)
「赤ひげ」
- ・★マグサイサイ賞 ジャーナリズム文学部門賞 (翌年6月マニラにて受賞)
- ・★朝日文化賞
- ・キネマ旬報ベスト・テン 第1位 監督賞
- ・毎日映画コンクール 日本映画賞
- ・第16回ブルーリボン 作品賞 主演男優賞:三船敏郎 助演女優賞:二木てるみ
- ・シナリオ作家協会 シナリオ賞
- ・東京労映ミリオンパールベスト・テン 第3位 新人賞:内藤洋子
- ・「週刊サンケイ」シルバースター 作品賞 監督賞
- ・NHK映画祭 最優秀作品賞 最優秀男優買:三船敏郎
- ・日本映画記者会 2位 最優秀男優賞:三船敏郎
- ・優秀映画鑑賞会 べスト・テン 第1位
- ・日本映画技術賞 録音賞:渡会伸
- ・「映画芸術」ベストテン 第4位
- ・ホワイトブロンズ賞 べスト・テン 第3位
- ・全文協映画年度 邦画部ベスト・テン
- ・大阪市民映画コンクール 作品賞
- ・シネ・サークル函館 映画鑑賞会 ベスト・テン 第1位
- ・日本映画ペンクラブ ベスト・テン 第1位
- ・「映画評論」ベスト・テン 第6位
- ・「くまもと映画手帳」 読者べスト・テン 第1位
- ・いわき民放 日本映画べスト・テン 第1位
- ・中部日本高等学校映画連盟 べスト・テン 第1位
- ・中部良い映画を見る会 第1位
- ・日本映画テレビ製作者協会 新人賞:内藤洋子
- ・ベネチア国際映画祭サン・ジョルジュ賞 主演男優賞:三船敏郎
- 国際カトリック映画事務局賞 ヴェネチア市賞
- ・モスクワ国際映画祭 映画労働組合賞
◆1970年(昭和55年)
「どですかでん」
- ・キネマ旬報ベスト・テン 第3位 男優賞:井川比佐志
- ・毎日映画コンクール 女優助演賞:奈良岡朋子
- ・シナリオ作家協会 シナリオ賞
- ・「映画評論」 ベスト・テン 第4位
- ・芸術祭映画部門
- ・日本劇映画優秀賞 四輪の会
- ・モスクワ国際映画祭 ソ連映画人同盟 特別賞(1971年度)
- ・アデレード国際映画祭 作品賞(豪・1971年度)監督賞:黒澤明
- ・ベオグラード国際映画賞(ユーゴスラビア・1974年度)
- ・ベルギー映画批評家協会 グラン・プリ(1971年度)
◆1971年(昭和46年)
- ・★ユーゴスラヴィア 国旗勲章
◆1975年(昭和50年)
「デルス・ウザーラ」
- ・キネマ旬報 外国映画ベスト・テン 第5位
- ・モスクワ国際映画 金賞(1976年度)
- ・パリ国際映画祭賞
- ・アカデミー賞 最優秀外国語映画賞
- ・NFFニューヨーク映画祭賞(1976年度)
- ・アソシエーションフランセーズ賞(1976年度)
- ・ダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞(伊・1976年度)
- ・イエズス会文化センター サン・フェデーレ映画監督賞(伊・1977年度)
- ・ベネチア国際映画祭 サン・ジョルジュ賞 観衆による投票 第1位(1978年)
- ・モスクワ国際映画祭 国際映画評論家賞(1979年度)
◆1976年(昭和51年)
- ・★文化功労賞
◆1980年(昭和55年)
「影武者」
- ・キネマ旬報べスト・テン 第2位 助演男優賞:山崎努
- ・毎日映画コンクール 日本映画賞大賞 監督賞:黒澤明 男優演技賞:仲代達矢
美術賞:村木与四郎 音楽賞:池辺音一郎 日本映画フアン賞 - ・ブルーリボン 作品賞 主演男優賞:仲代達矢 新人賞:隆大介
- ・第5回シネ・フロント 日本映画ベストテン第2位
- ・ゴールデン・グロス賞 特別賞
- ・ゴールデン・アロー賞 大賞 仲代達矢 映画賞 仲代達矢
- ・優秀映画鑑賞会 ベストテン 第1位
- ・大阪映画サークル読者選出 ベスト・テン 第1位
- ・報知映画賞 最優秀映画賞
- ・カンヌ映画祭 グラン・プリ
- ・英国アカデミー賞 監督賞 衣装デザイン賞(1980年度)
- ・フランス・セザール賞 最優秀外国映画賞(1981年度)
- ・ベオクラード国際映画 最優秀芸術賞 作品賞 美術賞:村木与四郎
- ・ダウィッド・ディ・ドナテッロ賞 監督賞(伊1981年度)
- ・ヴィットリオ・デ・シーカ賞
- ・イエズス会文化センター サン・フェデーレ賞
- ・テキサス州ヒューストン映画祭 最優秀作品賞
- ・チリ映画祭 最優秀映画賞
- ・イスラエル政府より 最優秀映画賞
- ・イタリア批評家賞 最優秀監督賞
- ・ベネズエラ 文化映画センター 最優秀外国映画賞
- ・ドナッテロ賞(伊) 非イタリア映画 監督賞
制作者賞 フランシス・コッポラ ジョージ・ルーカス
◆1981年(昭和56年)
- ・イタリア共和国勲章 勲二等(O・M・I)
- ・集英社 ロードショー・シネマ大賞 特別栄誉賞
◆1984年(昭和59年)
- ・★レジオン・ドヌール・オフィシェ勲章(フランス)
- ・第2回川喜多賞 黒澤明
◆1985年(昭和60年)
「乱」
- ・★文化勲章
- ・★コマンドゥール勲章(フランス)
- ・キネマ旬報べスト・テン 第2位
- ・ブルーリボン 作品賞 監督賞
- ・毎日映画コンクール 日本映画大賞 監督賞 男優助演賞 井川比佐志
- ・日本アカデミー賞 吉楽賞 武満徹 美術賞 村木与四郎 村木志
- ・第5回藤本賞 特別賞 古川勝巳
- ・セルジユ・シルベルマン 原正人
- ・第9回山路ふみ子映画賞 功労賞 野上照代
- ・第10回シネ・フロント 日本映画ベスト・テン第1位 男優賞 仲代達矢
- ・米国アカデミー賞 衣装デザイン賞 ワダエミ
- ・ニユー∃ーク批評家協会 最優秀作品賞
- ・全米批評家協会(1986年度) 作品賞 撮影賞 斎藤孝雄 上田正治 中井朝一
- ・英国アカデミー賞最優秀外国語作品賞(1987年度)
- ・サンフランシスコ映画祭 黒澤明賞
◆1987年(昭和62年)
- ・第5回川喜多昌 セルジュ・シルベルマン
◆1988年(昭和63年)
- ・第6回川喜多賞 三船敏郎
◆1990年(平成2年)
「夢」
- ・キネマ旬報ベスト・テン 第4位
- ・毎日映画コンクール 日本映画優秀賞 音楽賞 池辺晋一郎 撮影賞 斎藤孝雄 上田正治 特別賞 笠智衆
- ・第8回川喜多賞 笠智衆
- ・第14回日本アカデミー賞 音楽賞 池辺晋一郎
- ・第22回照明技術賞 劇映画部門 最優秀照明賞 佐野武治
- ・第15回シネ・フロント 日本映画ベストテン第5位
- ・アカデミー賞(1989年度) 特別名誉貰 黒澤明
- ・第1回福岡アジア文化賞
◆1991年(平成3年)
「八月の狂詩曲」
- ・★ソ連諸民族友好勲章
- ・キネマ旬報ベスト・テン 第3位
- ・第46回毎日映画コンクール 日本映画優秀賞
- ・第16回シネ・フロント 日本映画ベストテン 2位
- ・第15回山路ノミ、み子買 映画賞 黒澤明 功労賞 村瀬幸子(俳優としての長年の功績)
- ・日本映画テレビプロデューサー協会
- ・工ランドール新人賞 吉岡秀隆
◆1992年(平成4年)
- ・全米監督協会賞 D・W・クノブイス賞受賞
- ・第4回高松宮殿下記念 世界文化賞受賞(演劇・映画部門)
◆1993年(平成5年)
「まあだだよ」
- ・キネマ旬報ベスト・テン第10位
- ・第3回日本映画批評家賞 女優賞:香川京子
- ・第48回毎日映画コンクール 田中絹代賞:香川京子
- ・第17回日本アカデミー賞
助演女優買:香川京子 撮影賞:斎藤孝雄 上田正治 照明賞:佐野武治 美術賞:村木与四郎 - ・第35回ブルーリボン賞 助演男優昌・所ジョージ 助演女優賞・香川京子
◆1994年(平成6年)
- ・京都賞
◆1996年(平成8年)
- ・東京都名誉都民
◆1998年(平成10年)
- ・国民栄誉賞
◆1999年(平成11年)
- ・第41回ブルーリボン賞 特別賞