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黒澤明監督年譜

黒澤明監督年譜について

 黒澤明監督の年譜は、黒澤明研究会編集の「夢のあしあと」(第1刷)に掲載した『年譜』を基に作成しています。 「夢のあしあと」(第1刷)出版後に、確認された事実や誤字・脱字については順次改訂と修正を実施しております。

【1910年 明治43年 出生】

◎3月23日(水曜日、雨) 東京府荏原郡大井町1150、現・品川区東大井3-26-4付近(2013/06/23改訂)(通称立会川)に生まれる。
 父・勇45才は、慶応元年生まれ、秋田久保田(佐竹氏)藩下、現・秋田県大仙市(前・仙北郡豊川村)で村役の家の人。 安部一族黒澤尻の正任を祖とし累代神職であった。 日本体育会体操学校(明治24年創設・日本体育大学の前身)および併設された荏原中学の要職にあった。

 黒澤家は、校内の教職者住宅である。 母・シマ40才は、明治3年生まれ大阪商家の人。 姉兄は、茂代・昌康・忠康(病死)・春代9才・種代7才・百代5才・丙午4才。 明は、四男四女の末っ子だった。

現在、日本体育会跡地には品川区立浜川中学校がある。


【1911年 明治44年 1才】

【1912年 明治45年 2才】(大正 1年)

【1913年 大正 2年 3才】

【1914年 大正 3年 4才】

◎乳児期の記憶は断片だが、鮮明に自伝「蝦蟇の油」で語られている。
 父の勇は仙台鎮台の陸軍歩兵曹長、陸軍戸山学校の第1期体育学生(明治18年)から、 ここの教官を前歴とした軍人で厳格な人だった。

しかし、日本体育会の創設時から役員だった父は、旧来の武術とともに欧米のスポーツを 普及、日本での最初のプール(明治40年 東京勧業博覧会)創りにも関った先進的な人でも あったから、映画(活動写真)にも理解があり家族を連れてよく見にいったという。


【1915年 大正 4年 5才】

◎4月森村幼稚園に入園する。


【1916年 大正 5年 6才】

◎4月森村小学校に入学する。
 当時は南高輪尋常小学校といい、品川八ツ山にあった。現・森村学園は横浜市緑区に移設。
 幼年期の明は虚弱で知能が遅れていたと自身述べている。


【1917年 大正 6年 7才】

◎小学2年

◎父・勇、日本体育会体操学校を退職。

◎小石川の大曲に転居する。小石川区西江戸川町9 (現在・文京区水道1-4)

◎黒田尋常小学校に転校する。現・文京区小日向2-16。
 廃校になった跡地には、区立第五中学校→音羽中学校→廃校
  現在は、筑波大学の
 「付属学校教育局」「理療科教員養成施設」「特別支援教育センター」となっている。


【1918年 大正 7年 8才】

◎小学3年

◎立川精治先生が担任となり絵に興味をもつ。
また同級生の植草圭之助、秀才だった兄・丙午の影響で学年が進むにつれ成績が上がっていく。


【1919年 大正 8年 9才】

◎小学4年

◎兄・丙午 黒田尋常小学校卒業。
 一中の入試に失敗、成城中学へ入学したが学業より文学、映画に傾斜しはじめる。

◎姉・百代病死(享年16才。「蝦蟇の油」による)


【1920年 大正 9年 10才】

◎小学5年

◎ [この頃から剣道や書道を習う。また父たちと近くの神楽坂に遊び、映画や寄席をよく見る]


【1921年 大正10年 11才】

◎小学6年

◎兄・丙午(15才)黒澤遥村の名で映画プログラムなどへ投稿。
  遥村の他、はるか、粋眼など名乗る。


【1922年 大正11年 12才】

◎黒田尋常小学校を卒業。

◎4月京華中学に入学する。現・文京区本郷2-1順天堂の一画。
 現在、京華学園は文京区白山に移設されている。


【1923年 大正12年 13才】

◎中学2年

◎9月1日関東大震災に遭遇する。
 明は丙午に連れられ下町を巡り死屍累々の地獄を見る。

◎目黒に転居する。(転居年末確定)


【1924年 大正13年 14才】

◎中学3年

◎渋谷・長谷戸に転居する。(転居年未確定)渋谷町長谷戸29。
 現・渋谷区恵比寿西1-27。なお、この前後、付近で再転居があつた。

◎京華校友会誌に載った作文「蓮華の舞踏」は、国語の小原要逸先生に創立以来の名文と誉められる。

◎兄・丙年18才、新宿「武蔵野館」で映画説明者見習いのあと、赤坂「葵館」へ。


【1925年 大正14年 15才】

◎中学4年

◎丙午19才、神楽坂「牛込館」へ須田貞明の名で出る。


【1926年 大正15年 16才】(昭和 1年)

◎中学5年

◎須田貞明(丙午20才)神田「シネマ・パレス」にも出演する。


【1927年 昭和 2年 17才】

◎3月・京華中学卒業。

◎画家を志す。東京美術学校を受験するが不合格。同舟舎、川端絵画研究所へ通う。

◎須田貞明(丙午21才)神田「シネマ・パレス」の専属となる。


【1928年 昭和 3年 18才】

◎9月、第15回「二科展」入選。油彩「静物」

◎秋頃より、『造型美術研究所』(丸ノ内)へ通い始める。


【1929年 昭和 4年 19才】

◎2月、『造型美術研究所』、丸ノ内より長崎町(豊島区)へ移転。

◎4月、ナップ(全日本無産者芸術連盟)傘下のヤップ(日本プロレタリア美術家同盟、
  母体の一つは『造形美術研究所』)のメンバーとなる。

◎12月、第2回プロレタリア美術大展覧会へ5点出品、1点撤回。

◎須田貞明(丙午23才)浅草と新宿の「松竹座」に移る。


【1930年 昭和5年 20才】

◎徴兵検査(兵役免除となる)

◎6月、『造型美術研究所』は『プロレタリア美術研究所』へ改称。

◎この頃より非合法紙である第二無産者新聞の地下活動員となり、家を出て下宿を転々とする(推定)。

◎須田貞明(丙午24才)浅草「大勝館」で主任説明者を務める。
 (但し初日は5年大晦日)


【1931年 昭和6年 21才】

◎7月、『日本プロレタリア美術集』に『建築場に於ける集会』、『失業保険を作れ』が掲載されるが、発売後発禁処分に。


【1932年 昭和7年 22才】

◎地下活動より脱落、兄丙午(須田貞明)の長屋、神楽坂近く横寺町に身を寄せる。(1931年説もある)

◎4月8日から20日、S・P(松竹・パラマウント)チェーン浅草「大勝館」と「電気館」でトーキー争議。
  須田貞明は争議委員長。


【1933年 昭和8年 23才】

◎7月10日兄・丙午自殺(27才。伊豆の旅館で)。
 また、音信不通だった長兄・昌康病死の報がこの頃ある。


【1934年 昭和9年 24才】

◎[この頃、画家への才能に疑問を懐き黒澤家に残った男子としてほかの仕事を考え始める]


【1935年 昭和10年 25才】

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